書物から読書系へ?
(前略) ……もし「1ページ1パラグラフ、裏は白紙、しかもそれはすべて仮説(私論)に過ぎない」みたいな書物が(というよりは英単語カードみたいなものだけど)あれば面白いんじゃないか。世界にはたくさん隙間があること、実は整合性の取れた「体系」なんてない、すべては断片にすぎないってことをそのまま視覚化した非・書物。紙の書物のスタイルは「紙が貴重」であることによっている。デジタルであれば「紙」の量はほぼ無尽蔵だから、こういうスタイルも成立するはずだ。
じゃ、その断片としてのパラグラフをつなぐ(全体としての意味を与える)コンテクストはどうなるのか? という話になる。「そんなのは読み手が勝手に作り出すもんだ」というポストモダンな考え方はもちろんありだと思うけど、でもほんとにそれだけなのか? という疑問は消えない。
技術的には、前後のパラグラフをその場で呼び出してつなぐことも、別の似たようなパラグラフに移動することもできなくはない。あるいはそのパラグラフの裏側に注釈の形でメタコンテクストを与えてそれで制御する方法もある。それは映画を途中から見はじめて、自由に前後を巻き戻せたり、ある瞬間から別の映画の似たようなシーンにジャンプできるようなもの。SF的に言えば「平行宇宙の異なる時空間を自在に行き来するような感覚」かもしれない。
「それってハイパーテキストでしょ」と言われそうで、まぁ、たしかにその一種ではあるけど、でもどこか似て非なるものになるような気がする。でも体験したことがないから「わからない」あるいは「……な気がする」とか言うしかない。
たとえば、そのパラグラフカードの「裏」に読者が勝手に「でも、私はこう思う」を追加できたらどうなるんだろう。しかも、その「裏」が無制限に許容されるとしたら……パラパラ見ていって、これと思う読者の書いたものをまとめて見ることもできれば、反論だけを集めて見ること、あるいは、たくさん読まれているものだけを拾って読むこともできる。
あらかじめリンク先が固定されているハイパーテキストでもなければ、平面上に広がるウェブでもない、表もあれば裏もあって、しかもある種のコンテクストが自動的に生成されるような仕組み。人工生命的なアプローチによる書物であり書評であり、それらを融合した「場所=読書系(読み、書く、システム」あるいは「書物というパッケージはコンピュータとネットワークによって著者や読者を巻き込んだひとつの系(システム)に進化する」とか。
なんだかエイプリルフールみたいになってきたなぁ。でも……(後略)
[松岡裕典] |